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Research Groups 2024: Group B「ある住宅地のジオメトリ/ヒストリーを可視化せよ」

はじめに

B班は「ある住宅地のジオメトリ/ヒストリーを可視化せよ」というお題のもと、町田市玉川学園住宅地を対象としたプロジェクトに取り組んだ。

小田急線の町田駅に隣接する玉川学園前駅および玉川学園を中心として形成されたこの住宅地は、自然豊かな町並みが広がる丘陵地である。また町内会による環境維持や文化活動のほか、住民による地域福祉にかかわる施設の運営など、自律的な地域づくりに取り組む住民像が特徴の町といえる。

現在の玉川学園住宅地

江戸時代には「芝生(しぼう)」と呼ばれる入会地だった現在の玉川学園周辺の土地は、長いあいだ居住者のいない場所であったが、1927年に学園創設者・小原氏による用地買収が開始される。小原氏は購入した30万坪のうち10万坪を学園用地とし、学園施設の建設の費用を賄うために、残り20万坪を住宅用地とし宅地分譲を進めた。

玉川学園分譲案内パンフレット(1929年)

宅地分譲については500坪という大規模な宅地割を基準とし、造成に際しては地図上で等高線沿いに幹線道路を走らせ、そこから支線を伸ばし、道路に沿って宅地を割り当てた。このとき丘を囲むかたちで拓かれた二つの環状の幹線道路と、それらを結ぶ道を「ハチマキ道路」といい、学園による住宅開発のなかでも駅前通りにつづく主要道となった。

本プロジェクトはこの「ハチマキ道路」沿いの一帯をリサーチ対象とする。「学園村」としてスタートしたこの地域が現在に続く郊外住宅地として発展をはじめたのは1960年代であり、この時期に公立小学校や都営住宅が建設され、宅地の細分化が進んだ。このようななかでハチマキ道路も学園村構想の骨格から、住民活動が交差する場所へと変容したことが考えられる。

そこで本プロジェクトは、1960年代よりはじまったスプロール化の流れにおける住宅地開発とそこへ流入した「新しい家族」の姿に着目し、玉川学園の空間としての歴史と重ね合わせることで、これまでの形成史では描かれてこなかった視点で町を捉え直すことを目的とする。

方法

本プロジェクトを始動するにあたり、玉川学園住宅地域の研究をされている都市計画家の高見澤邦郎先生にご挨拶にうかがいプロジェクトへのご助言をいただき、1960年頃から1970年代にかけてハチマキ道路沿いに移住した4名の住民を紹介していただいた。

調査方法

B班では紹介いただいた4名の住民に対し、上記のスケジュールでそれぞれ2回インタビューを行った。

インタビューを通してハチマキ道路周辺の住民像・家族像を明確にすると同時に、それぞれの住民の語りをもとに「移住当時の語り手の自宅を中心としたパース」「語り手の自宅を中心とした鳥瞰図」を描いた。語りを集約し表現を統合するのではなく個別の絵とする理由は、4名の移住当時の年齢や家族構成には差異があることからその個別性を尊重するとともに、同時期の町内をより多角的に捉えることがねらいである。

成果

Kさん

K邸はハチマキ道路と駅前通りをむすぶ坂の中腹に位置する。

1964年に両親とともに玉川学園に引っ越してきたKさんは、結婚し一時的に転出したのち実家に戻り、以来この場所に住み続けている。語りからは、砂利道や、賑わいのある商店街、空き地や畑のなかにぽつぽつと家が建ち始める斜面地、丘上の黒松の雑木林などで構成された、歪で整っていない風景が浮かび上がる。Kさんは環境保全を中心とした町内活動に関わっているが、余白や緑の多い風景が環境整備によって塗り替えられていく過程をみた経験が、現在の活動に繋がっているのではないだろうか。

Iさん

I邸はハチマキ道路に面し、1964年、2歳のときに家族でこの場所に引っ越してきたIさんは当時は2階建てで手入れをした庭がある家々が立ち並んでいた一方で、鬱蒼とした藪も残っており、暗い雰囲気を感じていたという。

玉川学園に通っていたIさんは、公立学校に通う子どもたちの「縄張り」が町内にはあったため、そこからは離れた家の前の砂利道でよく遊んでいた。商店街へは急こう配の砂利道を下っていたが、中学生くらいの時にスーパーや、町田のデパートができたことで、商店街にはあまり行かなくなったという。Iさんはこの町で育つなかで、薮が開かれたり道路が舗装されたりして風通しが良くなり、だんだんと人の住む場所へと変化していったと語った。

Sさん

Sさんは30歳のころ、両親が住む玉川学園に引っ越しハチマキ道路沿いの土地に平屋を借り、夫婦で住み始めた。

1973年当時、まだ下水道は通っておらず浄化槽を付けて側溝に流していたことや、ハチマキ道路の脇には生垣が生い茂っていたことなど、現在とは異なる生活様式や風景があったとSさんは語る。また、かつて一枚の大きな土地だった場所を道側から取り合うように分譲が進んだため自宅の裏側には空き地があり、その場所を後年購入し畑としている。当時はS邸の隣には児童館があり、近隣の子どもたちが出入りしていたそうだ。このようにSさんの語りからは、斜面地ならではの暮らし方や風景が浮かび上がった。

Oさん

ハチマキ道路を中心とした学園分譲地と小田急分譲地の境界一帯にO邸は位置する。

一家がこの地に移住した1957年は、地盤改良により造成された坂や土手が広がり住宅はほとんどない場所であった。Oさんは人口増加に伴い地域住民の要望により開校した町田市第五小学校の第一期生だった。子供の目線で捉えた地域の風景には、遊び場としての安全な場所や危険な場所があったといい、また社会的な違い、例えば制服を着て通学する玉川学園の子供たちには距離を感じ、大きな屋敷が立ち並ぶハチマキ道路の北側には「一等地」というイメージを感じ取っていた。また都営住宅に住む友人たちの家庭との間には生活環境の違いを意識することもあったと語った。

まとめ

本プロジェクトで明らかとなったことは以下のようにまとめられる。

●1960年代以降のスプロール化により整備された住宅地は、500坪を基準に区画割りされた学園村構想による「粗雑」で「余白」のある基盤を引き継ぐことになる。「緑のある郊外地」「玉学への入学」など、さまざまな理由でこの場所に流れついた核家族は、松林・藪・畑を手に余しながら、学園村時代に整備された道路を手がかりに接道を考え、宅地を細分化していった。そのように「余白」を切り開くことで自らの住まいや、祭りの開催地、子供たちの遊び場を獲得した。

●初期は不安定な住宅地であったがゆえに、下水を側溝に流すために坂下の住人の許可が必要となるなど、住民同士の関係性の維持が求められる場面も多かった。砂利掃除やゴミ処理、井戸の利用など、生活のさまざまな場面で家族と地域の関わりが生まれ、共同体としてのつながりが築かれていった。

以上のように本プロジェクトは、流れ着いた核家族の歴史の舞台としての玉川学園という新たな町の姿を描き出した。

参考文献

高見澤邦郎「玉川学園住宅地の戦前および戦後初期の開発状況-『80年のあゆみ』補遺-」2009年

玉川学園町内会『我がまち:玉川学園地域80年のあゆみ』2009年

卯月盛夫、戸田一直「玉川学園における住宅地開発」1978年

卯月盛夫、戸田一直「玉川学園のコミュニティの変容過程」1978年

山口廣編『郊外住宅地の系譜:東京の田園ユートピア』鹿島出版会、1987年

玉川学園地域のいま昔・連続歴史懇話会議事録(第1回:藤沢初恵「この地域のなりたちー「芝生」と呼ばれていた頃のことなどー」2007年12月2日、第2回:野川明治「学園商店街のなりたちーわずか数軒のお店から始まってー」2008年3月23日、第3回:高見澤邦郎「町田市まちづくり50年をたどればー市制50周年記念誌をテキストにー」2008年7月26日、第4回:井熊孝司「昭和の時代の学園地域」2008年11月24日、第5回:小川功「昔、この地域に香雪園という梅林があった」2009年2月28日、第6回:雨宮正輝、西陸彦、塩原国隆「このまちの戦後-昭和30年代、40年代を中心にー」2009年10月11日)