哲学者。1970年兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。現在、明治大学理工学部准教授。著作に『民藝のインティマシー 「いとおしさ」をデザインする』(明治大学出版会)。加えて、生活や就労に障害のある人々が心身のバランスを取り戻し、次のステップへと進んでいけるような、過程を支援するケア施設「ムジナの庭」にも関わる。
今回、その取り組みに関する洞察を中心に「家族」への考え方についてインタビューを行った。
──鞍田先生には「ムジナの庭」の取り組みに関する洞察を中心に「家族」に対する考え方等をお話していただければと思います。まず、自己形成についてお聞きしたいのです。プロジェクトを進めていくなかで、家族のかたちに対する意識の形成はやはり幼少期にどのような経験をしたのかが大きく起因している気がしているのですが、鞍田先生は幼少期にどのような経験をされましたか。
僕自身の自己形成においては、幼少期と他にも時期があるんだよね。幼少期は僕のおばあちゃんの存在は大きかったな。母方の祖母が旅館を切り盛りしていて、その場所にしょっちゅういりびたっていたかな。
──旅館というといろんな方が行き来するような感じでしょうか?
そう。そういう中で育てられたのが大きかったし、幼少期に身につけたおばあちゃん運が学生になってもあってね(笑)
──幼少期に加えて自己形成で重要な時期が学生時代にも訪れたわけですね。
そうそう。大学生になって初めて親元を離れて京都でひとり暮らしを始めるんだけど、大学2年生の時に高山寺というお寺にバイトで行き始めたんですよ。
──お寺でのアルバイトは、実に京都らしいですね(笑)なぜそうなったのですか?
高山寺は紅葉の名所なのね。シーズンになるとお寺の人が処理できないほどのたくさんの人が来るからその時期だけアルバイトを雇ってた。僕の親友が電信柱にある手書きのバイト募集の張り紙を見つけて、友達からくらちゃんって呼ばれてたんだけど、「くらちゃんも絶対行ったほうがええで。」って言われて僕もちょうど家庭教師のバイトが一つきれたところだったし、そこまで言うんだったらと思って行ってみたんだよね。

──電信柱に貼ってある手書きのバイト募集の張り紙って少し怪しい感じがしますが(笑)結果的には無事アルバイトをすることができたんですか?
怪しいよな(笑)当時僕も半信半疑で。初めて訪ねたのは秋の10月のあたまぐらい、朝早くから、7時台とかそんなやったかな。山あいの停留所でバスを降りると、薄モヤが立つようなちょっと幻想的な雰囲気で。そんななかお寺へとずーっと歩いていった。正直、歩いている時は自分なんでこんなことしてんねやろ、とか色々考えてたんだけど、通用口とおぼしきところの正面に本当に綺麗な白髪のおばあさんが座ってたんだよね。僕が、声をかけようと思ったら、僕の足音に気がついてこっちを振り向いたんだけど、もうその目がやばくて。射抜かれた感じの。
──ひとめぼれのような感じでしょうか?とても幻想的な出会い方ですね。その方はお寺の方だったんですか?
一目惚れなのかな(笑)言うてもまだ僕も20歳ぐらいだったので、強がりを言っても自分の中で自信がない部分があって、内側のくよくよした部分を全部見抜かれた感じがして、「ああ、この人には何言われても降参やって。」オガワ チエさんっていうんだけど。その当時はまだみんなから「奥さん」って呼ばれてたけど、後にそのお寺の住職さんになる人で。ちなみに、チエさんは娘夫婦との3人家族だったんだよね。で、その夫婦は時々山を下りて、京都の町中にマンションを別に持ってて、ゴルフをしたりとか結構遊んでいる人たちで(笑)。
──チエさんとはどのような親交があったんでしょうか?
娘夫婦がリフレッシュがてらお寺の外に出ていくんだよね。そうすると、ご高齢のチエさん一人になって物騒ということもあるから、僕が行って、一緒に泊まって、晩御飯を一緒に食べたりした。で、朝起きたら朝の掃除とかそういうのをしたりする。おばあちゃんと孫みたいな時間があったりして、それが楽しくて、ちょっとおばあちゃんにお小遣いをもらいに行く感覚でバイトをしていたという感じですね。もっと言うと、そこで結婚式まで開いてもらった(笑)
──結婚式を開いてもらうなんてすごい(笑)高山寺を介して、チエさん以外とも関わりがあったりしたんですか?
僕が大学院生の頃だったかな、新宿生まれの男の子がお寺に住み込みに来たんだよね。新宿の呉服屋の次男坊って言ってたかな。で、何しに来たんかと思ったら、京都のお茶の家元に内弟子になるために来たっていうんですよ。そんなお茶って仕事として志してくるようなもんなんかみたいな感じで、僕からすると軽いカルチャーショックもあったんだけど。でも彼との接点のおかげで、お茶の世界にも興味が湧いてきたりとか。今、民藝に首を突っ込むようになったのも、遡ると高山寺を介した多くの人との関わりが原点にあるかなってこともあるんだよね。そんな感じで、色々な人の繋がりとか文化的な繋がりとか、あるいはその思想的なことも含めて、色んな意味で気づきを得た場所が高山寺ですね。
──民藝への興味のルーツはそんなところにあったんですね。チエさんを含め、今でも関わり合いがあるんですか?
いや。僕が社会人になって、しばらくしてチエさんがガンになったという知らせを受けた。できるだけ、関西に仕事とかで行く時があるとお見舞いに行ったりしてたんだけど、ある時にお会いした時のことが本当に忘れられなくて。普段は綺麗に髪の毛も整えて結んでたんだけれど、そのときはもういかにも病人っぽくて。また来ますねって最後に去り際に挨拶したら、手を差し出されたんですよ。チエさんの手なんて握ったことないから、もしかしたらもう最後かもと思われたのかもしれないと思って、「ああ、また来ますよ」って言いながら手を取ったらめちゃくちゃ柔らかい手だった。ふわふわの手で。最期には立ち会えなかったけど、チエさんや高山寺との出会いがあったから今ぼくは「民藝」を取り扱うようになったし。家族ではないけれども、家族的な感じ。おばあちゃん的存在というか、それがすごく自己形成で大きかったなと思いますね。
